展覧会関連トーク「地域や人と関わりながらつくること」
2011年に行われたプレゼンテーションイベント「デザイン・ピッチ」での共演をきっかけに幸田千依の活動に興味を持ち、自信のプロデュース公演「静かな一日」で広報ビジュアルに作品を採用してくださった振付家の矢内原美邦さん。パフォーミングアーツと絵画という違いがありながらも、各地での滞在制作経験や地域住人と関わりながらの制作など近しい経験のある2人が、お互いの興味の向くままに話した会期中のトークの様子をダイジェストでお届けします。
幸田:私はこの2-3年、今回の個展のようなホワイトキューブではなく、いろいろな土地にレジデンスしながら描いていたので、今日はまずレジデンスの話からしたいと思います。去年、BankART1929のコーディネートで、台北市・横浜市アーティスト交流プログラムに参加して台北に行ったのですが、矢内原さんも2005年度に参加したプログラムですよね。
矢内原:どうでしたか? 台湾。
幸田:最高でしたね。また行きたいです。人がよくて、日本人と似ているんだけれどもっと素直。中国の人ともまたちょっと違って。
矢内原:台湾ではどんな日々を?
幸田:基本は公開制作で、レジデンスの中にあるギャラリーで毎日絵を描いていました。いろんな人とどうやったらコミュニケーションとれるかなと考えて、せっかくだし「中国語を教えてください」と紙に書いて張り出してみました。言葉では分からないけれど、紙に書いてもらうと漢字だから、何となく分かったり、その意味を伝え合う過程が面白かった。それを絵の周りに貼っていったんです。幼稚園児くらいには(中国語を)覚えました(笑)。
滞在地での人との関わり
幸田:出来上がった作品をただ鑑賞してもらうのではなく、制作している人やその姿勢を通して、奥にある作品も観てもらいたかったのです。地方のレジデンスとか地域系アートプロジェクトとかに行くと、「分からない」とか言われませんか?
矢内原:そうですね。そう言われることは多いですよね。そこをどうやって分かり合うか、みたいなことを幸田さんはやりたいということですか?
幸田:そうなんです。そのひとつの手法が公開制作なんです。よく分からない人がいきなり自分の地域に来て何か作っているわけじゃないですか。学生ですか? とか聞かれたりして、この世の中で絵を描くことで生きていこうとする人間がいることをうまく腑に落とせないというところからのスタート。
矢内原:ヨーロッパとアジアの大きな違いですよね。ヨーロッパのレジデンスに行くと「アーティストです」というだけで「あぁ、そうなんだ」と。それは文化的レベルの違いでもあって、私が会った人たちがたまたまそうだったのかもしれませんが、アジアのレジデンスには文化に親しんでいない方も多く関わっていたりして「レジデンス? 何ですかそれ?」というのがありますよね。
幸田:そのフィルターがあるから絵を見てもらえないということに気づいてしまって、でもそのフィルターをはずしてもらうには、見せ続けるしかないのかもなと思ったんです。若者が朝から夜まで何かをやっている。描いている姿を見せていたら、人が何かを真剣にやっているという「真剣さ」だけは伝わって、だんだん、差し入れが増えてくる。これも表現だと思うんです。頑張っている人を見て、何かは分からないけれど「何かしたい」という表れが差し入れ。差し入れで暮らせるようになることもあります(笑)
矢内原:私は台湾でレジデンスする前、ACCのレジデンスや、アメリカの大学に短期間行っていたこともありましたが、アーティストだけでレジデンスに籠ってしまうことが多かったですね。もっと活動を広く伝えるとか、幸田さんのようなことを真剣に考えるようになったのは、人と関わりながら作品が生まれていくということを少しずつ理解していくようになってきたからです。
ところで絵を描く時って自分ひとりじゃないですか。そこに人が関わることで、どんな風に変わるんですか?
幸田:絵が大きく変わるというより、「見せる」ことが変わる。作り終わったものを誰に見せたいのかを考えるようになったんですね。ただ漠然とたくさんの人に見せたいというのもあるんですけれど、地域に行くと、そこの人に見てもらいたいという気持ちがはっきりしてきます。そういう時に、絵との出会ってもらい方にも、美術館以外のいろいろな方法を考えたい。わかる人だけに見てもらえればいいというのではいられなくなったのは、そういう人たちに出会ってしまったからです。今回久しぶりにこういう白い空間でやってみたら、逆に難しいと感じています。誰という対象があやふやになってしまって。
『see/saw』(※)を観たときに、横浜と越後妻有とで全く違いました。同じ作品だけれど、何が変わったのでしょうか?
※矢内原美邦振付のNibroll作品(2012年7月〜8月にかけてヨコハマ創造都市センターと越後妻有アートトリエンナーレの2会場で上演)
その土地での出会いと創作
矢内原:横浜でやったときは、近くにお客さんが多くいるので基本的にはその人たちに見せることを考えるんですね。エキストラダンサーをやはり横浜や東京から集めて、12人で2週間だけ一緒に作業をし公演をしました。妻有の場合は、4人のメインダンサーは一緒で、(エキストラダンサーは)地域の人でやったんです。それも80世帯くらいしかない新潟県十日町市倉俣地区でやって、ダンスは別にやりたくないという人たちとやった。公演の3日前になって出たくないという人がいたり、当日になって出れないと言ってでない人がいたり。でもそれを傍観していたら楽しそうで、じゃあやってみようとか2日目から出てくれたり(笑)。横浜や東京でやる以上に、その場で起こることが、その場で出会った人によって変わり、作品にそのまま影響する。
あとすごいと思ったのは、80歳前後のおばあさんやおじいさんが盆踊りの達人で、カラス踊りというのを教えてもらったんですね。プロのダンサーを4人連れていって、おばあさんと全く同じようにやらせたのだけれど、やっぱりおばあさんに目がいく。プロフェッショナルなダンサーや振付家が盆踊りを踊ったときに、80歳のおばあさんに全く敵わないことを目の当たりにしたときに、ダンスのあり方というのは一方向ではないということを感じました。東京や横浜でやったものと全く違ったと思います。
幸田:そうですね。そういった条件の違いが作品に強く影響していたので、両方を観てすごい面白かったんです。
矢内原:幸田さんがここで描いているものと、地域で描いたものも違うんでしょうね。改めて絵を見ると、また違う印象が出てきます。
幸田:ひとつの壁に作品がたくさんかけられているシリーズが今回の個展のためにひとりで久しぶりにアトリエで描いたものなんですね。自分で見ていても全然違うなと思っていて、地域とか人とかの取っ掛かりではなく、自分の中から題材を掘り起こしていくということをとことんやったら、なんだか暗いのです。
矢内原:なんか色が暗いと思いました(笑)
幸田:色も、全体的に影がある感じになっちゃっているというのも、自分が普段考えている事が反映されてしまうからですかね。今まで行ってきた場所で昇華しきれなかった根本的なものが、発酵してでてきたみたいな。私は、どこから引き出してくるかで全然変わっちゃうんですけれど、『see/saw』の横浜を観たときに実はちょっと暗いなと思ったんですね。「そのまま終わったらどうしよう?」とドキドキしていて、希望みたいなものを探してしまった。それを妻有でやるときにどうなるのかを楽しみにしていて、全然違うものになっていたんで、びっくりしました。
矢内原:やっぱりそこに出会いがあったからだと思います。とにかく祭りをやりたいと思っていて、会場をふたつに分けて練り歩いたじゃないですか。御神輿がないということでわざわざ作ったんです。その御神輿を担いでもらう青年団の人に頭を下げに行って、初めはノル気ではなかったけれども、最終的には青年団の名にかけて担いでやると言い始めて、少しずつお米をもらったり、それこそ滞在していると差し入れが増えてきて、関係が出来ていった。やってよかったと思ったのは、これから毎年10月にその神輿を担いでくれるんですよ。
幸田:新しい祭りが出来た?
矢内原:そう(笑)。今までは神輿を担ぐ行事がなくて、みんなで神社で祝うだけだったのだけれど、これからは神輿を習慣にしようと言ってくれて。次の年にニブロールのみんなで見に行ったらちょっと感動しました。妻有は次々に新しいアート作品を作るだけはなくて、どういう風にしてその土地に繋がり、人々の心になにを残していくかということが課題になっていくと思うんです。
私たちはポチョムキンという公園でやったんですけれど、そこは子どもが事故を起こしそうになったことがあったので地域にとっては少し嫌な存在だったそうなんですね。私たちはそれをどうにかしたいと思っていて、東京から観に来てくれた観客も、地域の人も一緒に盆踊りをして、ポチョムキンから近くの矢放神社に神輿をかつぎながら皆で移動するという公演を行いました。もちろん、ポチョムキン公園に長らく入れなかった地域の子供達も大変喜びましたし、嫌な存在でなくなるようにしたいと強く思いました。素敵な建築ですからね。
後、とても印象に残ったのが、公演で使った神輿は、ニブロールと倉俣地区の人達のいらなくなったものでつくった神輿なんです。公演が終われば廃棄処分にする予定でしたが、新潟県十日町市倉俣地区では収穫祭というのをやって、そこでつくった神輿を収穫祭でかつぐよと公演が終わってから言っていただき、とてもうれしかったです。今でも大事に保管してくれて、10月の収穫祭になったらかついでくれると思うと、本当にうれしかったです。新潟に残って、いつまでも私たちがやるわけにもいかないけれど、そこの土地に住み続ける地域の人たちが『やっていくよ』と言ってくれてできたんですね。本当に感激しました。
幸田:それ、最高じゃないですか。自分たちが毎年関わるのもいいのだけれども、そこにいる人たちの表現したいという気持ちとかを刺激して、その人たちが勝手にやり出したという風になるのが、アーティストがいろんな土地に行く意味だと思うんですよね。自分らが関わるところを増やして忙しくするというのもいいのだけれど、その人たちの中にある力を引き出しているのだから、最高の形ですよね。
矢内原:妻有とか、瀬戸内とか、アーティストがどこで何を作っていくのかは、トリエンナーレやビエンナーレが増えてくるたびに問われていく問題なので、そこで出来ることは社会に対して考えていかないといけないと思います。
幸田:そうですね、そういうところと関わると思いますね。
矢内原:画家が出来ることもたくさんある。見せ方ひとつにしても、画家の本人に話しかけられて、見ている人は変わっていくと思うんです。そういう働きかけをしている人って思いつく限りではいないので、それはこれからもやっていって欲しい。
幸田:私は、絵描きは一対一でどんな人とも出会うことが出来ると思っています。いろいろな地域に行って、しがらみや先入観もありますけど、こちら側がひとりなので、話していくと大体の人とは分かりあえて、普通に話が出来るようになってくるんです。そうなった時に、絵もきちんと見てもらえるし、その人自身の何かが変わっていくという感覚があって、そういう出会いをコツコツするしかない。絵の前にいても一日100人の人とは話せませんが、それでもいいからそうしていきたい。
寿町みたいに特殊な場所でも、まち自体の問題とかを目にすると最初はアートとかやっている場合じゃないよねと思ったりもするんだけれど、結局人と人として話すことには変わりなくて、そうしていくと「まち」っていう概念がなくなって、「人」って感じになる。それの繰り返し。どこへ行っても最後は「人」がどう生きていくか、どう表現するかということに関わることに変わっていく。でもいっぺんに関わることができないので、ゆっくりですね。
分かり合う瞬間
矢内原:中国の昆明スタジオ943のレジデンスに行ったときに、ちょうど中国の人たちが日本に対するデモをやっていて、作品を作ろうと思ってそのデモをやっている人たちのインタビューをしに行ったんです。カメラと「日本についてどう思いますか?」という中国語の紙を持って。
幸田:大丈夫だったんですか?
矢内原:私たちに危害は及ばなかったです。ただ、すごい難しい問題だなと思いました。中国の人たちが抱えている問題が、領土問題だけではなく、一言では言い表せないものがあるんだと分かって、国を超えられるのは、絵とか音楽とか一緒に物をつくったりすること以外にはないのじゃないかと切実に感じました。
幸田:海外に行くとそうですね。日本代表ではないのだけれど、聞かれますもんね。
矢内原:どう答えます? ギャラリートークをやったときに「領土問題についてどう思いますか?」って聞かれたときに、「関係ない、関係ない」と言うくらいしか出来なくて、まだ見つけられないんです。昆明のみんなは「それもわかっているけれど、もっと深く考えたいんだよね」ということを言っていて。来年10月また展示をしに行くのでそのときに話しましょうと言ったのですけれど、怖くて行けないんですよね。
幸田:自分がそのことに対して考えてきていたり、意見があったら何かは言えると思うんです。考えてないから言えない、知らないってことじゃないですか。私はなぜその人がそう思うか知りたいなって思います。自分が知らなければそれに対する意見はゼロだし、知りたい。関係ないからいいよとは思わないので、でも勉強という意味で知りたいのではなく、今そこで出会ったあなたの思っていることを聞きたい、という感じですね。普通の会話ですけれど、そうやって話していくと、最後はだいたい飲みながら笑う感じになりますね。何も解決はしてないけど、相手も結局は知りたいのだと思うし、そうやって一人ひとりとやっていくしかない。知りたいという意識もあるから、いろいろなとこに行くんだと思うのです。私の場合知らないことが圧倒的に多いけど、だからこそレジデンスがいいのでしょうね。
矢内原:絵一枚で、同じ絵が好きだとか、言えたときっていうのは、今話していたみたいに瞬間的に何か変わるというのはわかるんですよね。
幸田:そう、「瞬間」なんですよ。世界中の人と一生仲良くするのって無理なんですよ。でも一瞬でもいいから、パッてその人とわかりあえたみたいな瞬間こそが大事で、絵の前で人と出会うというのはそれに近くて、表現の場って日常のざわざわした時間とちょっと違うじゃないですか。5分くらいしか話さなかったけれど、その瞬間に何かが一緒にシュッとなって、そのあとわかれていくんだけれど、そのことは覚えているし、その瞬間をいっぱい溜めていきたい。
矢内原:ジャコメッティは彫刻作品を作る時にいつもどんどん削っていって、最後はなくなってしまって「またできなかった」って言うらしいんですよ。奥さんが見ていて、これはいいぞ、いい細さだと! となると、盗むようにギャラリーに走って作品持っていったということを聞いたことがあります。「削って、削って、また出来なかった」という、完成を目指しているのではなくて、こうやって生きるんだ、これが表現なんだってやっていたら知らない間になくなっちゃって、「あぁ、できなかった、また一からやり直すかな」っていうことを繰り返しながら生きているということが、生きることに向き合うひとつのヒントになるんじゃないかと、そこに到達するまでの時間だったり、もする、うまく言えないのですが、もしかしたら『真剣に考えてるよ、お互いに生きてるよね』ってことを中国の人に言える答えなのかな、と幸田さんと話しながら思いました。
ダンスは一瞬一瞬で消えていきますけれど、私はいつも何かが残ると信じていて、それは絵とか彫刻も一緒なんじゃないかなと思っています。ジャコメッティの話を聞くと、なんだ彫刻も残すために創ってないんだと、一瞬をそこにおいて、消えてゆくのかぁと
幸田:それは私もそう思っています。
矢内原:それは絵が残るという単純な話ではなくて、ジャコメッティの言葉を借りていうのなら「あぁ、また」ということで人生を続けていくみたいなことができたら、そういう問題も答えが出るのかなと思います。
—2013年3月27 日、BankART Studio NYK(横浜)にて収録
ゲスト:矢内原美邦(振付家)
ニブロール主宰。大学で舞踊学を専攻、在学中にNHK賞、特別賞など数々の賞を受賞。日常の身ぶりをモチーフに現代の空虚さや危うさをドライに提示するその独特の振付けは国内外での評価も高く、身体と真正面から向き合っている数少ない振付家のひとりと言える。ミクニ ヤナイハラプロジェクトでは演劇にも挑戦し、ジャンルを問わないその活動はニブロールのみならず、多数のアーティストとコラボレーションするなど世界中を舞台に活躍中。